その生いたち
第一回公演は、昭和20年9月24日から3日間、名古屋宝塚劇場で行われたのが最初で、中心街が焼け野原となった終戦直後。当時の記録によると、全国的にみても戦後初の舞踊公演だったといいます。当時の新聞には“娯楽に飢えた人々がどっと詰めかけ、超満員の盛況”とあります。
昭和23年からは会場を御園座に移し、公演日数も年毎に増えて昭和30年前後は22日間、名古屋の名物として定着、大変な人気を博しました。発足から約半世紀。東西の名物おどりが次々と消えていくなかで現在も10日間の公演を継続、多くの人に親しまれています。
名古屋をどりが他流派からも注目され、評価されてきたのは日本舞踊を”興行”として定着させたことと新しい作品を生み出す”発進基地”として創作舞踊を数多く作り出してきたこと。大きく分ければ、このふたつ。そして、この公演の一番の功績は舞踊の大衆化。日本舞踊のよさ、楽しさを広い客層にアピール、この基本姿勢が興行として成功させることにつながったともいわれています。 大衆化を図るには、新しい魅力を盛ること。そのためには創作舞踊が必要と第1回以来、毎回新作を柱にしてきました。 具体的な特徴としては、劇的要素を加えた”舞踏劇”を数多く手がけてきたことで、これは最初の主宰者、二世家元西川鯉三郎から現在の三世家元西川右近に至るまで不変。これが西川流ばかりでなく、東西の舞踊界にも刺激を与え、日舞の新しい方向を探る基地ともなりました。 他の舞踊公演と比べて際立っているのは、新しい作家、スタッフを数多く登用してきたことで高見順、木下順二、川端康成、北条秀司以下、谷崎潤一郎、吉川英二、三島由紀夫、有吉佐和子、久保田万次郎、木下恵介、田中青磁、花登筐、水上勉、鷲見房子など枚挙にいとまがないほど。最近では松山善三が十余作執筆、また久世光彦、市川森一、鴨下信一など、映像界の才能が参加しています。 |
|