四世家元 西川千雅の仕事

四世家元 西川千雅

日本舞踊は何歳から?

6歳の6月6日に祖父のお稽古始めで「五万石」という踊りが最初なのですが、踊り自体は遊びのように物心ついたときからしていたようです。

では初舞台は?

5歳のとき名古屋をどりの「ある秋の日」という舞踊劇の子役で、石井ふく子さんが演出してくださいました。

なぜインターナショナルスクールに通ったのですか?

僕は幼稚園のときに登園拒否児で、困った父が友人に相談したら「俺の子ども達が通っている、守山区の名古屋国際学園に入れたらどうだ、そこは人間教育に優れているぞ」と言われ、見学に行ったら僕も気に入ったそうで、そのまま高校卒業までアメリカ人の先生から米国式の授業を受けて育ちました。

ずいぶん日本舞踊の家元とは遠い場所みたいな気がしますね。

本当に180度違っていて(笑)。日本の学校みたいに「整列、前へならえ」とかもないですし私服だし夏休み3ヶ月もあるし…。でもうちに帰ると稽古でずっと何時間も正座して…みたいな。「自分の人生は自分で決める」というアメリカ式と「家を継がなくては」という日本式の考えに当時は悩みましたね。

やはり家を継ぐ、みたいなプレッシャーがあったのですか?

もう「その未来しかない」みたいに周りも行ってましたからね、でも自分は漫画家になりたかったんですよね、絵が得意だったから。でもその得意はまったく認められない(笑)高校卒業したときに継ぎたくないみたいな話をはじめて親にして、それでいてすねをかじりながらニューヨークの美大へ行って、現代美術を学んだんですね。髪の毛ものばしたりなんかして。

一番古いことから一番最新の世界に行った!と思ったんですが、別にそこが自由とは限らないな、とかアメリカに住むと日本人はそれなりに差別も経験するし、日本は小さい国、ということもわかるし。でも世界では日本の文化は人気があるんですよね。禅だとか、浮世絵とか、ゴジラとか(笑)そこで日本の文化を見直したのと、改めて「日本の文化はそこまで普遍的じゃないから、日本人が忘れたら世界から消えちゃうなぁ」と思ったんです。

それで家を継いだのですね。

いえ、辞める気満々で(笑)。卒業して帰ったらいきなり「名古屋をどり」の稽古で厳しくって。父の稽古は超スパルタでしたからね。でも舞台稽古直後に心臓発作を起こして入院し、出演できなくなり・・・急いで内容を変更し古典は故・西川長寿さんや菊次郎さんが代役ををしてくださり、新作舞踊劇を代役したんです。それからは代役代役で全国回ることになり、なし崩し的にこの世界に入ったのですね。

だから、日本舞踊以外の活動も多いのですね

35歳くらいまでは日本舞踊中心で、やっぱり古典とか勉強しないとって思って…。月刊KELLYというタウン誌にコラム書くとか、たまにアートパフォーマンスはしましたけど。当時、今はもう亡き能楽笛方・藤田流家元の藤田六郎兵衛先生「なんでもやったらいいんだよ」と名古屋能楽堂でパフォーマンスさせて下さったり。でもやはり修行期間でしたね。父の秘書もして運転手もしていましたから。

どこから今のスタイルになったのですか?

30歳くらいのときに「にっぽんど真ん中祭り」に関わるようになって、それが観念を覆しましたね、舞踊以外の「普通の世界」の人々と接して評価されるようになったんです。この祭りにはコンテストがあって、チームのプロデュースを頼まれたので趣味だった作曲や得意の美術を使って振付以上のことをしたんですが、コンテストに落ちるとめちゃくちゃ批判されるんですよね、ダンサーに変えろとか(笑)家元の息子、というのも対して価値がないし。それまではアートでマニアックだった趣味が「一般大衆」の力を知って。

名古屋をどりは舞踊の大衆化がテーマでしたよね?

そうなんです。でも全っ然社会とはへだたりがあって。ポスターに写真すらなかったし。
ある時サザンのコンサートに誘ってもらい、ドームで5万人がワッと湧いているのをみて「メジャーってすごい」と思ったんですよね。

メジャーはすごい?

「伝統芸能も出来た当時は新作だ」と父がよく言ってたんですが、よく考えると伝統として残るためにはめっちゃくちゃ売れてないと行けないんですよね。それが時代を経て文化になってゆく。そう気づいてからは西川流の家元の歴史って常に「現代との戦い」だった、と気づいたんです。初代も劇団を創ってみたり、舞踊の譜面をつくったり、吾妻能の家元もやったり。祖父は当時のスターに振付したり、作家が書く舞踊劇を確立したり、父は自分で脚本を書いたり、テレビやラジオのホストをしたり、NOSSという運動をつくったり。

それから色んな活動をはじめたんですね。

きっかけは故・中村勘三郎さんがお父様の十三回忌に御園座で公演をやるからと私達親子を出してくださり、そこで舞台をご一緒して、ものすごい実力を間近で感じたのと当時は久々の名古屋だったのでお客様の拍手がすごくて「これがスターか」と。それから直後に勘三郎さんの親友でもある渡部えりさんが名古屋をどりに出演して、本当に演技にたいして情熱的で、また2005年の愛知万博開会式に狂言の野村又三郎さんのお声がけで出演させていただいた直後、腰を痛めて入院し、その後彼にミュージカルに誘われて「外の世界も挑戦しよう」と声楽やダンスもはじめたりして。それから活動が増えましたね。

なぜ、今の色んな世界で活動されるのですか?

やはり伝統を残すためには一人でも多くの人が興味を持たないといけないんですね。それが大変で、その価値を認めてもらうためのステップが必要なんです。お稽古してくださる方の価値観もどんどん変わっていきますし「稽古事って価値あるよ」みたいなマーケティングも必要だし。「伝統を活かして今に役立てる、それが未来を作る」そう思うと仲間って舞踊だけじゃなくてビジネスにもどこにも居ることが分かり、それこそ世界で共通する考え方だと。それが今のテーマですね。  「伝承なくして創造なし、創造なくして伝承なし」これが西川流に伝わる言葉なんです。これからもその精神で挑戦を続けたいと思います。

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